聞き書き『モガ・鹿乃ちゃんの百年―バウハウス』

モガ鹿乃ちゃん2

女学校卒業を迎える鹿乃子を刺激したものがあった。「バウハウス」。8歳年上の姉・陸子(むつこ)は日本で最初の女性向け週刊誌『週刊婦女新聞』の記者だった。バウハウス関連の記事を見せられ「建築って面白そうだ、建築家になりたい」と思った鹿乃子。この週刊誌については後ほど書くが、睦子は好奇心旺盛な妹をいつも刺激してくれた。しかし、鹿乃子によれば当時の大学で女性を受け入れる建築科はなかった。そんな時代だった。「そしたらね、建築科は駄目だけど、日本美術学校なら女も入れる図案科があるからってムツコサンが受験をすすめたくれたんだよ」。姉のことを「ムツコサン」と呼ぶ。(他の兄姉の話をする時も名前で呼ぶが、本人に向かってはどう呼んでいたのだろうか?次回の散歩の時に聞いておかねば・・・)。「バウハウス」については、ネット検索したものを引用させていただく。

<1919年に生まれた、ドイツ・ワイマールの美術学校と工芸学校を統合した、総合芸術  学校のような教育機関。その存在は教育機関にとどまらず、現代デザインの基礎を築いた、先進的な「総合芸術運動」と捉えることができる。初代校長は建築家のワルター・グロピウス。その基本理念は、産業と芸術の統合を目指す「産業芸術」。またグロピウスは、建築を生活の器として捉え、建築がベースとなって、インテリア・デザイン、グラフィック・デザイン、プロダクト・デザインが生み出されるという発想を持っていた。教育機関であったバウハウスからは、この理念に沿って、カンディンスキー、ミース、リートフェルト、ブロイヤーなど、多岐にわたる分野で優れた人材や作品が輩出された。33年、ナチス・ドイツによって弾圧、閉校。各地に飛散した教員、学生により、教育運動、造形運動、工房活動は全世界に波及する。(武正秀治 多摩美術大学教授 )>