聞き書き『モガ・鹿乃ちゃんの百年―母・つや』

モガ鹿乃ちゃん2

今日(2013年8月28日)は、暑かったので夕暮れになってから散歩に連れ出す。「この時間が好きなんだ、子どもの頃からね。周りの色が変わるから」。帰りに二人で外食をし、鹿乃子の母・つやのことを聞く「今日はお母さんのお母さん、つやさんの話を聞きたいんだけど」。私は両親の祖父母を全く知らない。だからお祖父ちゃん、お祖母ちゃんと言ったことが無い。だから「つやさん」と言うしかない。

つやは明治七年生まれ。富山で一番大きな料理屋の娘だったという。正二郎とは見合い結婚だった。「昔はほとんど見合い結婚だったよ。今と違ってね」「とても綺麗な人だった」。「結婚するまでは自分で料理はしなかったんだろうけど、料理屋の娘だったから、味の分かる人だったんだと思う。食事は同じ物が出たことがなかったし、とても美味しかったよ」。「工夫するのが好きな人だった」「例えばね、布団の四隅に三角の黒い布を縫い付けていた。ほら、四隅って汚れるところだからね」。この話をするときは、いつも手近な紙をつかって三角の袋を折り、実演してくれる。「着ていたものはね、覚えているのはカンタンフクだった」「カンタンフク?」「うん、カンタンフク」。どうもァッパッパのことらしい。帰宅後、調べてみた。清涼服ともいったそうだ。
「お母さんが工夫好きの人だったから、自分も工夫って面白いものだって思った。だから、『暮らしの工夫』っていう記事を書いたのもその影響だと思うよ」。そう、鹿乃子は戦後しばらくの間、新聞や婦人誌に「私の工夫」「暮らしの工夫」などという記事を書いていた。これらの記事は今でも残っている。昭和22年の朝日新聞家庭欄には「工夫界の先輩」と紹介されたこともある。