聞き書き『モガ・鹿乃ちゃんの百年―日本美術学校』

モガ鹿乃ちゃん2

日本美術学校は豊多摩郡戸塚町(現・新宿区早稲田)にあった。鹿乃子によれば学校は高田の馬場に在った、という。

 

 

 

紀淑雄 きの-としお

1872-1936 明治昭和時代前期美術研究家。
明治5年4月22日生まれ。東京専門学校(現早大)を卒業し,母校講師をへて明治44年早大の教授大正6年独力で美術研究所(翌年日本美術学校改称)を創設,初代校長をつとめた。福地復一との共著「日本帝国美術略史」がある。昭和11年4月15日死去。65歳。東京出身。日本で初めての週刊誌「婦女新聞」の記者だった。子に受験をすすめた。

 

三年制で、当初女子は3名いたが一人は秋に病死する。一人は中国人だったが、入学した昭和6年の918日に満州事変勃発のため帰国し、鹿乃子は図案科で紅一点となる。

昭和9年に卒業。21歳。卒業アルバムの鹿乃子はなかなかカッコイイ。おしゃれだが、意思の強そうな表情だ。

 大正末期から昭和初期のモボ・モガは流行の洋装を身につけた不良的な若者たち、という意味合いが強かったが、時代の先端をいく存在でもあった。

 美術学校の講師の一人が謙吉で、その講義ぶりは鹿乃子の記憶に鮮やかだ。つかつかっと教室に入ってくるなり「今日の課題は○○○」と告げると、またつかつかっと出ていく。

もう一人の古田立秋は丁寧な説明をするので、二人の対比がおもしろかったという。

在学中、漆芸家・磯矢阿伎良(ルビ・いそやあきら)の自宅の工房にも通った。

磯矢は美校・漆工科出身で、生活に密着した「用即美」の漆工芸を提唱し、当時の作品の絵ハガキ(箱)を見ると、とてもしゃれている。