聞き書き『モガ・鹿乃ちゃんの百年―受験』

モガ鹿乃ちゃん2

日本美術学校の入学試験は、学科と実技。実技は金銭花の写生とベンカだった。「ベンカ?どういう意味?」「ベンカはベンカだよ」「だからぁ、金盞花をベンカするって、どうするの?」「そういえば最近はベンカってあまり使わないねぇ」「聞いたこともない・・・」「そうか、使わないのか・・・うーん、まあデザイン化するってことかな。便利のベンに化学のカだよ」「へぇー、初めて聞いた」「そうー?」。この会話は2年前、鹿乃子が98歳の時だった。時々全く知らない言葉が出てくるので戸惑う。
具体的な対象物を意匠化、図案化、文様化することで、家紋が良い例らしい。鹿乃子は受験にでた金盞花が今でも好きになれないという。「春になると、花屋の店先に並んでいるけど、あれを買う人もいるんだねー、あたしは買わないね」。好き嫌いをほとんど言わない鹿乃子だが、よほど手こずったのか・・・。便化に苦労した甲斐あって合格した。昭和6年(1931)の春だった。

 

 

 

聞き書き『モガ・鹿乃ちゃんの百年―バウハウス』

モガ鹿乃ちゃん2

女学校卒業を迎える鹿乃子を刺激したものがあった。「バウハウス」。8歳年上の姉・陸子(むつこ)は日本で最初の女性向け週刊誌『週刊婦女新聞』の記者だった。バウハウス関連の記事を見せられ「建築って面白そうだ、建築家になりたい」と思った鹿乃子。この週刊誌については後ほど書くが、睦子は好奇心旺盛な妹をいつも刺激してくれた。しかし、鹿乃子によれば当時の大学で女性を受け入れる建築科はなかった。そんな時代だった。「そしたらね、建築科は駄目だけど、日本美術学校なら女も入れる図案科があるからってムツコサンが受験をすすめたくれたんだよ」。姉のことを「ムツコサン」と呼ぶ。(他の兄姉の話をする時も名前で呼ぶが、本人に向かってはどう呼んでいたのだろうか?次回の散歩の時に聞いておかねば・・・)。「バウハウス」については、ネット検索したものを引用させていただく。

<1919年に生まれた、ドイツ・ワイマールの美術学校と工芸学校を統合した、総合芸術  学校のような教育機関。その存在は教育機関にとどまらず、現代デザインの基礎を築いた、先進的な「総合芸術運動」と捉えることができる。初代校長は建築家のワルター・グロピウス。その基本理念は、産業と芸術の統合を目指す「産業芸術」。またグロピウスは、建築を生活の器として捉え、建築がベースとなって、インテリア・デザイン、グラフィック・デザイン、プロダクト・デザインが生み出されるという発想を持っていた。教育機関であったバウハウスからは、この理念に沿って、カンディンスキー、ミース、リートフェルト、ブロイヤーなど、多岐にわたる分野で優れた人材や作品が輩出された。33年、ナチス・ドイツによって弾圧、閉校。各地に飛散した教員、学生により、教育運動、造形運動、工房活動は全世界に波及する。(武正秀治 多摩美術大学教授 )>

 

聞き書き『モガ・鹿乃ちゃんの百年―裁縫』

モガ鹿乃ちゃん2

府立第五高女だけではなく、当時の女学校は「良妻賢母」を育てるのが教育の大きな柱だったから、裁縫は5年間の間に一通り縫ったそうだ。襦袢、長襦袢、女物単衣、男物単衣、袷などなど。最後に縫ったのが、なんと男物の五つ紋の羽織。
「紋というのはその家を表しているからね、紋を見ればどこの家の者だか分かるから、紋付きを着るのは、大事な時だから、背中の紋を合わせるのが一番難しいんだよ。ずれちゃいけないからね」。卒業する時に父・正二郎に羽織を縫い、贈った。口数の少ない父だったが「ほう」と言って喜んだという。鹿乃子は好奇心の強い17歳の少女になっていた。昭和4年、この頃、世の中は何が起きていたのだろうか・・・

聞き書き『モガ・鹿乃ちゃんの百年―口癖』

モガ鹿乃ちゃん2

いつの頃から始まったのか定かではないが、鹿乃子の口癖の一つに「大変だよ」がある。たとえば、女学校時代の国語の先生の話になると「着物の柄とか、袴の色とか、歩き方とか、話し方とか、手の振り方とか・・・今でもはっきり覚えているよ。だから先生ってのは大変だよ。生徒にいつまでも覚えられているんだからね、大変だよ」。「絵描きっていうのも大変だよ」「彫刻家っていうのも大変だよ」。こんな具合に、何でも大変だと言うので「皆、好きでやってるんだから大変ってことは無いんじゃないの」と妙な反発をする気持ちになる。すると「そりゃそうだけど、一つの事を続けるのは大変だよ」と、絶対に折れない。あー、そういうアナタが大変なんだよ、と言いたいところだが、ま、イイか。

 

聞き書き『モガ・鹿乃ちゃんの百年―ブラジル余話』

モガ鹿乃ちゃん2

昨日、いつか行きたかった店「銀座 カフェ―パウリスタ」で珈琲を飲んだ。。「ブラジル移民の父・森田龍(りょう)」が明治44年(1911)に開店し、日本に珈琲とコーヒー文化を広めたことで知られ、多くの文化人が集ったことでも有名だ。明治41年、森田は最初の移民船「笠戸丸」に781人を乗せ神戸港から団長として出港した人物でもある。「ブラジル移民の父」と呼ばれるのはそのためだ。鹿乃子の長兄・金郎がブラジルに行きたい行きたい、と毎日のように言っていたのは大正7,8年(1921)頃と思われる。
「カフェ―パウリスタ」創業当時の建物は、大正2年に3階建ての白亜の瀟洒な建物に改築されたが、大正12年の関東大震災で焼失、現在の店は昭和45年(1970)に再開された。ジョン・レノン、オノ・ヨーコ夫妻が来日中に毎日立ち寄ったのは昭和53年(1978)のこと。

多くの文化人が集った、と書いたがその中に小山内薫、伊庭孝、土方与志、久保田万太郎、秋田雨雀、田辺茂一、谷桃子、古川緑波、吉野秀雄などがいたと知り、行きたかったのだ。なぜなら小山内薫以外は私が幼い時、あるいは大人になってお会いしたことがあり、父から何度となく聞いていた名前だったから。

『日本で最初の喫茶店「ブラジル移民の父」がはじめたカフェ―パウリスタ物語』(長谷川泰三・著 2008年文園社)を読んでいて面白いことを見つけた。<明治末年、東京にはすでに可否茶館、メイゾン鴻の巣、カフェ―プランタンといった西洋料理店が存在していたが、従来のチップ制を廃止し、一杯五銭という手頃な値段設定を初めて実施したのはカフェーパウリスタであり(後略)>。
私の父・吉田謙吉は昭和5年(1916)、師・今和次郎とともに『考現学』を出版した。「銀座のカフェ―服装採集」の項には、小松食堂、三共、佐々木喫茶、千疋屋フルーツパーラー、カフェ―ライオン、ALPS、銀座交差点ぱんじゅう、TIGER、地下室喫茶部、CAFE KIRINの女給さんたちの絵があり、まさしく昭和モダンの香り満載だ。その続きに「女給さんエプロン実測」という採集がある。
<たとえば図に於て見られるポケットDは鉛筆や伝票を入れるためであるにしても、その裏側に更にチップを素早く忍ばせうる為めのポケットが女給さん自身の手によって附加されるという(後略)>。採集は昭和3年(1928年8月6日京橋木挽町)。

女給さんのエプロンS

カフェ―のチップ制はずーっと続いていたわけで、カフェーパウリスタの経営方針は当時斬新なことであった。同店の全盛期は大正8年から9年頃だったそうだ。鹿乃子が7,8歳のころである。関東大震災で焼失してしまったから、鹿乃子は入っていないが、明治30年(1897)生まれの新し物好きで銀座近辺で生まれ育った謙吉は、ここの珈琲をきっと飲んだに違いない、などと想像しながら、ゆったりとした平成の「カフェーパウリスタ」で、珈琲を一人でゆっくり堪能した。

聞き書き『モガ・鹿乃ちゃんの百年―ゼンチャン』

モガ鹿乃ちゃん2

印象的だった女学校の先生、ゼンチャン。2年生の時から学んだ「倫理」の先生で「善太郎だからゼンちゃん。禅宗の坊さんだったから名前とあわせてゼンちゃんって皆で呼んでいた」。「特に何ってことを教わった記憶がないけど、あたしはゼンちゃんが気に入っていたんだ」。鹿乃子は人でもモノでも場所でも、よく「あたし、気に入ってるんだ」という言い方をする。我が家で食事をする時も、室内にあるものを見まわして「コレ良いねー。あたし気に入ってるんだ」。どちらかというと服でもお皿でも、ドレッシーなものより、フォークロア調のデザインが好きだ。
「ゼンちゃんの上の名前は?」「うーん、何だったかな、ゼンちゃんの名字ね・・・・・・」「あ、そうだ、思い出した。イズヤマだった、伊豆の山・・・」。「卒業してしばらくしたら、新聞の死亡欄にゼンちゃんが載っていたよ。あたし死亡欄見るの好きなんだ」。「新聞に出るのは有名な人だから、ゼンちゃんも有名だったんだね。で、それを見た時にね、あー、とうとうゼンちゃんも死んだか・・・亡くなったか・・・って思ったよ」。途中で、亡くなった、と言い換えたが、気に入っていた師の話をカラッと話すのが鹿乃子らしい。
もともと感傷的な物言いをしない鹿乃子だが、性格なのか・・・

聞き書き『モガ・鹿乃ちゃんの百年―府立第五女学校』

モガ鹿乃ちゃん2

鹿乃子は四谷第四小学校を卒業して、東京府立第五高等女学校(現・都立富士高校)に入学した。第五高等女学校は大正八年に創立された学校で、入学するにはかなり勉強しないと入れなかったらしい。鹿乃子の話によれば、長兄・金郎は軍隊にいたが、鹿乃子の勉強をみるために帰宅してくれたという。当時の女学校は「高嶺の花」で同年齢の女子の1-2割程度しか入学出来ない存在だった。これは私(珠江)の大学進学率の状況とよく似ている。昭和30年(1961 年)代当時、都立高校では1クラス(男女共学だったが私は女子クラスだった)50人中、大学に進学したのは5,6人だったと記憶している。正式
な統計を見たわけではなく、鹿乃子と珠江の個人的範囲ではあるが、大正末期から昭和初
めの女子の高等教育進学率10-20%程度、昭和30年代初めの女子の大学進学率10―20%程度というのは、面白い。30年単位で女子の進学率が進化していることになる。
鹿乃子の父・正二郎は富山県人気質のひとつ、教育熱心な父親だったと思われる。「ずい分勉強したよ。金郎さんは真面目な人だから良い家庭教師だったねえ」。
第五高女の校風は「良妻賢母」が基本だったが、中等教育になると科目ごとに先生が変わるので、鹿乃子は学校が楽しかったという。
その中でも、二年生の担任だった「ゼンチャン」は印象的だったらしく、何度も話す。

 

 

 

 

 

聞き書き『鹿乃ちゃんの百年―カメその後』

モガ鹿乃ちゃん2

「東京は遠いから行きません。上海あたりなら良いけど」と言った女中のカメ。四国で生まれ育った。「お父さん(正二郎)が南海道に赴任していた時に子どもが生まれたから南海子(なみこ)って名前になった。その頃に来てもらった女中で、次に鹿児島に赴任しても一緒に来て、あたしが生まれた」。カメさんは南海子と鹿乃子を育てたようなものだ。正二郎一家が東京に行くことになり「記念に三人で写真を撮った。昔はカメラなんてものはどこの家にもあるものじゃなかったから、写真館でね」。残念ながら三人の記念写真は残っていない。「その後、カメさんはどうしたの?」「うん、四国に帰って結婚したけど、だんなが大した人じゃなかったとかで、離婚したそうだよ。カメは働き者だったから、一所懸命働いて金持ちになったって風の便りに聞いたよ」。

註・正二郎の赴任先が四国とまでは母も覚えているが、県名までは出てこない。

銀山温泉の歩道

山形県尾花沢市の銀山温泉街の歩道には、雪の結晶のタイルが嵌め込まれている。嵌め込み方がなかなか面白く、同じレイアウトはひとつも無い。イナックス製のタイルだとか。12月末頃から5月連休明けまでは2,3メートルもの雪に埋まる銀山温泉。このタイル、初夏からクリスマス頃までしか見られない。

銀山温泉歩道タイルS1

銀山温泉歩道タイルS2

銀山温泉歩道タイルS4

銀山温泉歩道タイルS

銀山温泉歩道S

雪の結晶タイルが嵌め込まれている歩道。

聞き書き『モガ・鹿乃ちゃんの百年―ブラジル』

モガ鹿乃ちゃん2

8人兄姉の長兄・金郎(きんろう)は若い頃「ブラジルに行きたい、ブラジルに行きたい」と毎日のように言っていたそうだ。「とにかく朝から晩までブラジル、ブラジル、ブラジルってうるさいくらいだったよ」。金郎のブラジル熱について鹿乃子は「自分はまだ子どもだったから、そんなに行きたいんだったら行っても良いのに」と思っていたという。しかし父・正二郎は違っていた。毎日ブラジルを熱く語る息子にたまりかねたように「親を捨ててブラジルに行きたいのかっ!」と怒鳴りつけたという。「金郎さんはハッとした顔をしてね、それきりブラジルとは言わなくなったよ」「昔はね、長男は家を継ぎ、親をみるのが当たり前だったからね」。正二郎が怒るのも当然だ、と大人になってから分かったという。「考えてみたらブラジルに行くのは農業をしている人だから、計測機械の会社員では無理だったね」とも言う。「でもね、金郎さんは植物が好きだったし、真面目で努力家だったから、ブラジルに行ったら成功したんじゃないかって蔭では家族で言ってたんだけどね。本人には言えないけどね」。

*ブラジルへの正式な移民は、1908年(明治41年)に始まり、新天地めざして移民が多く渡った。鹿乃子が子どもの時の話なので、1920年代(大正9年)頃と思われる。