聞き書き『モガ・鹿乃ちゃんの百年―廊下の白鳥』

モガ鹿乃ちゃん2

鹿児島から帰った正二郎一家は、四谷内藤町に住んだ。(そこには今も従姉が住んでいる)。鹿乃子は小学校に入学。当時の子どもはまだ着物が多かったが、鹿乃子はワンピースにエプロン姿で通学する好奇心旺盛な女の子だった。
大正11年(1922)、ロシアの舞姫アンナ・パブロワが世界公演の一環として日本にも来日。日本人がバレエに目覚めた貴重な公演だ。鹿乃子九歳、「瀕死の白鳥」を観たという。「瀕死の白鳥」を観て感激、帰宅して毎日廊下で白鳥になって踊ったそうだ。「子どもは何でも真似をする」と、築地小劇場で子どものための芝居を上演した時に小山内薫が書いているが、鹿乃子も白鳥になりきって廊下で舞い、優雅に倒れていたのだろう。家族は障子の蔭からそれを見て「また鹿乃ちゃん白鳥が倒れてる」と言ったかどうか・・・。

この話を何度となく何気なく聞いていたが、誰とどこの劇場で観たのか?は、鹿乃子の記憶はもはや定かではない。資料の裏づけが必要だが、今は聞き書きにとどめる。

ご近所マップ2

ゆげ&コトコト

ギャラリー<季の風>から徒歩5分の「ゆげ」と「コトコト」。名前も品物もユニークなお店です。ファンは巾ひろく、若いお母さんも年配の女性も。

「ゆげ」http://yuge2009.web.fc2.com/ オープン・火木土 10:00-16:00
ついつい長居をしてしまうレトロな雑貨屋さん。

「コトコト」http://510510san.blog110.fc2.com/blog-entry-322.html
オープン・月ー土 10;00-16:00
麻の手づくりアトリエ。不定期でお休みするので、確認してからお出かけください。

 

聞き書き『モガ・鹿乃ちゃんの百年―母・つや』

モガ鹿乃ちゃん2

今日(2013年8月28日)は、暑かったので夕暮れになってから散歩に連れ出す。「この時間が好きなんだ、子どもの頃からね。周りの色が変わるから」。帰りに二人で外食をし、鹿乃子の母・つやのことを聞く「今日はお母さんのお母さん、つやさんの話を聞きたいんだけど」。私は両親の祖父母を全く知らない。だからお祖父ちゃん、お祖母ちゃんと言ったことが無い。だから「つやさん」と言うしかない。

つやは明治七年生まれ。富山で一番大きな料理屋の娘だったという。正二郎とは見合い結婚だった。「昔はほとんど見合い結婚だったよ。今と違ってね」「とても綺麗な人だった」。「結婚するまでは自分で料理はしなかったんだろうけど、料理屋の娘だったから、味の分かる人だったんだと思う。食事は同じ物が出たことがなかったし、とても美味しかったよ」。「工夫するのが好きな人だった」「例えばね、布団の四隅に三角の黒い布を縫い付けていた。ほら、四隅って汚れるところだからね」。この話をするときは、いつも手近な紙をつかって三角の袋を折り、実演してくれる。「着ていたものはね、覚えているのはカンタンフクだった」「カンタンフク?」「うん、カンタンフク」。どうもァッパッパのことらしい。帰宅後、調べてみた。清涼服ともいったそうだ。
「お母さんが工夫好きの人だったから、自分も工夫って面白いものだって思った。だから、『暮らしの工夫』っていう記事を書いたのもその影響だと思うよ」。そう、鹿乃子は戦後しばらくの間、新聞や婦人誌に「私の工夫」「暮らしの工夫」などという記事を書いていた。これらの記事は今でも残っている。昭和22年の朝日新聞家庭欄には「工夫界の先輩」と紹介されたこともある。

 

 

聞き書き『モガ・鹿乃ちゃんの百年―地図』

モガ鹿乃ちゃん2

鹿児島赴任が終わり、正二郎は家族を連れて東京に戻ることに。鹿乃子が小学校にあがるときだった。「カメ、お前も東京に行くか?」「行きません、東京は遠いから。上海あたりならいいけど」。鹿乃子の話が続く。「鹿児島から東京へは、たくさん乗り換えしなくちゃ行けないからね。門司に出て・・・それから・・・うーん、とにかく、カメは東京は遠いと思ったんだろうね。でも上海は船なら乗り換えなしで行けるから近いと考えたんだろうね」。妻と八人の子どもを連れ、正二郎一家は東京に戻った。鹿乃子はカメの言葉「上海あたりならいいけど」が気になっていた。「それでね、上海ってどこなんだろう?って思って地図を見た。これが目的を持って地図を見た最初だったよ」。

この話は鹿乃子から何度も聞いている。いつもは歩きながらだが、今日は散歩の途中で珈琲屋に入り、ゆっくり取材。「取材費はコーヒー代でいいよ」と言われる。これを書きながら鹿乃子のように鹿児島、東京、上海を地図で確かめてみた。直線距離で測れば東京も上海もほぼ同じ。でも鹿児島と上海の間には海しかない。カメさんの感覚は「なるほど」と思った。

聞き書き『モガ・鹿乃ちゃんの百年―カメ』

モガ鹿乃ちゃん2

「お母さんに遊んでもらった記憶が無い」。まだ鹿乃子が幼かった鹿児島にいた頃の話。役人だった正二郎の家には来客が多く、その応対で忙しかった母は子どもたちと遊ぶ時間が無かったそうだ。「だからね、いつも女中のカメが遊んでくれた。カメは器量良しじゃなかったけど、良い人でね、好きだったヨ」。カメさんは前の赴任先、高知からついてきて、家事だけではなく鹿乃子の躾もしてくれた。官舎だったが、隣家とは一つの井戸を二軒で使っていて「隣にも女中がいてネ、ツルっていう名前だった。昔はカメとかツルとか長生きするものの名前をつけたんだよ、カタカナでね。今は洒落た名前が多いけどね」。「うちのカメと隣のツルがね、よく井戸で話していた」。その二人を見て「ツルとカメが井戸端会議してる」と姉たちが笑っていた。鹿乃子は意味も分からず「ツルとカメのイドバタカイギ」と一緒に笑っていたそうだ。(大正5年頃)

年をとると同じ話を何度も何度もする。カメさんの話も何十回となく聞いていた。ところが「ツルとカメの井戸端会議」は、今回初めて聞く話だった。記憶の引き出しの奥にかくれていたのか・・・。(2013年8月23日。99歳9カ月)

聞き書き『モガ・鹿乃ちゃんの百年―父・正二郎』

モガ鹿乃ちゃん2

鹿乃子の父、正二郎は明治元年(1868 年)富山の中井家の二男として生まれた。まだ富山藩で、明治4年の廃藩置県で富山県となった時代である。鹿乃子の話によれば、生家は庄屋のような家だったので比較的裕福だったらしい。しかし二男ゆえ家を継ぐことはならず武田ミツの長男として養子になる。富山人気質を表すことがいくつかある(註・珠江)。「越中の一つ残し」と言われ蓄財精神が旺盛なこと、子弟の教育には熱心な傾向があること、「嫁は越中から貰え」と言われるほど富山の女性は働き者であること。今でもそうなのは分からないが。ともかく、こうした環境の中で育った武田正二郎は、帝国大学(現・東大)に入学する。当時は上京するのも簡単ではなく、鉄道の無いところは歩いて行った、とは鹿乃子の話。専攻は林業。帝国大学の最初の卒業生だそうだ。卒業後、現・農林水産省に勤め、日本各地を赴任、結婚して八人の子どもをもうけた。大正2年11月23日、八人目の子どもが鹿児島赴任中に生まれ、鹿乃子と名づけた。子どもたちは全員長寿で 鹿乃子曰く、「戦争でも病気でも若くして死んだ人は誰もいないね。まあ、アタシが一番長生きしたけどネ。あたし幾つ?」「九十九歳、白寿のお祝いを去年したでしょ」「へえー、九十九歳!長生きしたもんだ。今度は百歳?、へえー、そうか百歳!」。フッフとヒッヒの間のような不思議な声で、いつものように可笑しそうに笑う。
★お断り
この聞き書きは、今のところ鹿乃子の記憶を主に書いていますので、細かい部分では記憶違いの可能性もあり、いずれ追跡裏づけ調査が必要と考えております。

 

聞き書き『モガ・鹿乃ちゃんの百年―1945年8月15日』

モガ鹿乃ちゃん1

今日、8月15日は敗戦記念日。日本が太平洋戦争に負けた日だ。夕食を鹿乃子とともにしながら68年前の今日のことを聞いた。鹿乃子は夫・吉田謙吉、長女・珠江(私)とともに、内蒙古の首都・張家口にいた。謙吉は前日の14日には現地の新聞社(蒙彊新聞―もうきょうしんぶん)で敗戦を知っていた。が、「周りの人に言うわけにいかないからね。隣の人には黙っていた。だって、日本が負けたなんて私たちが言ったら何されるかわからないからね」。母によれば、張家口の日本人たちは、贅沢ではないが生活にも困らず、日本政府にしっかり守られていたから、のんびりしていたそうだ。「正午にラジオで重大発表があるから一緒に聴きましょう」と誘われ、放送が終わると隣人は「え?なんだ、日本は負けたのか?」と言ったという。 2013年8月15日夜7時半。(99歳8か月) 

NHKの街頭インタビューによれば、終戦記念日を答えられなかった人が三人に一人にのぼったそうだ。

内蒙古・張家口に行ったいきさつ、暮らしなどは後日に。

 

 

ハノイレポート 鳥籠

中国文化の影響が残るベトナム。そのひとつ、小鳥を飼って鳴き声を愛でる、あるいは公園に持ち寄ってお茶を飲みながら、鳴き声談義に花を咲かせる時間を楽しむ。
ハノイ郊外と市内で見た、鳥籠風景。籠のデザインもなかなか面白い。細かい彫刻を施した物もある。ゆっくり抽出させるベトナムコーヒーを飲みながら、鳴き声をBGMに時を過ごすベトナムの人たち。

小鳥籠1

小鳥籠2

玉川学園ご近所マップ 1

リストランテ「ミ ディーカ」

<季の風>から徒歩3分ほど。
小じんまりとした洒落たお店。オーナーシェフがつくる料理は色彩も盛り付けも美しく、きりっとしたメリハリのある味で、季節ごとに楽しい料理が供される。
接客はシェフの奥様で、レストラン、ホテルなどで修業後、ご主人とこのお店を始めた。家族で、友人で、ちょっとしたお祝いもふさわしい雰囲気のお店です。

ご近所マップ1ミディーカさん

042-850-8201
ランチ11:30-15:30
ディナー18:00-
休 毎週・火曜日 第2月曜日

 

 

聞き書き「モガ・鹿乃ちゃんの百年―良い花を咲かせるには」

近くのデーサービスに、ステッキを持って歩いて行く。
途中に、見事に薔薇を咲かせている家があり、日ごろは門を閉ざしているのだが、咲きはじめると門を大きく開け放ち、通りゆく人を楽しませている。風向きの良い日には香りも漂ってくる。
何種類もの色とりどりの薔薇をしばし立止まって眺めていたが、歩き出しながら
「良い花を咲かせるには普段の手入れが大変だ。手入れしているからあんなに綺麗に咲くんだヨ」
「人間も同じだヨ。良い人を育てようと思ったら、小さい時から良く育てなきゃ」。

母の口癖のひとつに「大変だよ」が、ある。何事も楽しては出来ない、ということらしいが、大したことでもない事でも「アレは大変だよ」という。時々返答に困ることも。

2013年5月23日朝9時半。(99歳8か月)