マンガ旅日記『ベトナム・ハノイ編NO.10』

ハノイの旅も最後の一日、二人だけで地図を片手に歩く。行きたいところを日本で一応チェック。蓮料理が載っている本(なぜか日本語訳つき)、蓮が彫られた石の箱などゲット。ハノイマンガ旅日記20-1

ハノイマンガ旅日記21-1

ホアンキエム湖のカフェで。

ガイジン観光客が入る湖畔のレストランでベトナムコーヒーをスケッチ中の湯村サン。

骨董と少数民族の手芸品店ではベトナム・ドンが殆ど無くなり、湯村さんが買いたいもの(サパ族の布)が高かったので諦めかけたら、どんどん値下げをしてくれる・・・それでも足りない・・・つたない英語で「今夜日本に帰るのでコレしか無い」と言ったらOKに。
ベトナムは社会主義共和国、プロパガンダ・ポスターが今でも売られている。デザインには農民や子ども、銃とともに蓮が描かれているものも多く、これは私のコレクション。
チェ・ゲバラのポスターもあった。

ハノイマンガ旅日記22-1というわけで、夕食は抜きでした。
でも、無事帰国。

ハノイマンガ旅日記23-1

湯村泰子プロフィール画2

湯村泰子の『マンガ旅日記ハノイ編』は今回で終了いたします。(文・塩澤珠江)

次回から「韓国・大邱(テグ)」塩澤版(写真と文)が始まります。その後、「マンガ旅日記」が続きます。どうぞお楽しみに。

マックロ節

モガ鹿乃ちゃん2

 

 

朝刊を読んでいた鹿乃子が「あー、今日は桜島が噴火したんだね。よく覚えているよ」。
眼鏡はつかわずに大きな虫眼鏡で新聞を読む。
大正2年11月23日に鹿児島で生まれた鹿乃子は、桜島が噴火した時は一か月とちょっとだから覚えているはずはない。だがこの天変地異については家族でしばしば話題になっただろうから、それが自分の中で体験として記憶に残っているようだ。

風もなく穏やかな昼前、散歩にでて桜島の話を聞く。
「女中のカメがね、私を抱いて逃げたんだよ。たぶんオムツも一緒に持ってね。子どもが八人もいたから大変だったろうね」。

一冊の本がある。『啞蝉坊流生記』(添田啞蝉坊顕彰会 昭和31年刊)。
そえだ あぜんぼう(明治5年―昭和19年)はノンキ節などで有名な大正昭和の演歌師。牧伸二を思い浮かべていただけば分かりやすいが、その本には啞蝉坊作詞作曲の歌がズラリと載っていて、中に「マックロ節」という歌がある。

箱根山 昔は背で越す籠で越す
今ぢゃ夢の間汽車で越す
煙でトンネルはマックロケノケ

爪弾の 消えて聞えて又消えて
消えて聞えて又消える
邪魔な板塀 マックロケノケ

桜島 薩摩の国の桜島
煙吐いて火を噴いて破裂し(おこりだし)
十里四方が マックロケノケ

米で鳴る 陸奥に生まれて食えぬとは
嘘のようだが来て見やれ
いり藁松葉餅 マックロケノケ

唖蝉坊流生記表紙

添田唖蝉坊写真

 

 

 

 

 

 

 

二番はちょっと色っぽい。最後のいり藁松葉餅は究極の救荒食物で、藁や松葉を搗いて粉にし干したり蒸したりして餅状にしたものらしい。「マックロ節」が大流行になった時代背景が見える。
鹿乃子にマックロ節の話をしたら、通っているデ―サービスに演歌師がきて歌ってくれたという。
マックロ節をUチューブで聴いてみたら、何となくほっとするようなのんびりとしたテンポだった。

マンガ旅日記『ベトナム・ハノイ編NO.9』

ハノイマンガ旅日記17-1

ハノイマンガ旅日記18-1

「カーチュー」は15世紀に生まれたベトナム北部の伝統音楽だが、19世紀末(フランス統治時代)に富裕層が遊興の対象にしたため芸術としてのイメージが損なわれ、心ある一部の音楽家が細々と受け継いできた。2009年ユネスコ世界無形文化遺産になり、若い世代の演奏家も育っている。お化粧もしていない初々しい少女が演奏する姿は愛らしく
頼もしかった。

カチュー奏者スケッチ中2

カーチュー演者の女性をスケッチ中。

ハノイマンガ旅日記19-1

カ―チューの切なくなるような演奏を堪能したあとは、元気に食事。外国人のバックパッカーが多い店で、我々も違和感なく溶け込める雰囲気。料理は厨房内にある大きな台からチョイスする仕組みで、種類が多く何回か通わないと選びきれない。今回は食事の場面が主になり、お許しください。

続く。(文・塩澤)