聞き書き『モガ鹿乃ちゃんの百年―富士山』

モガ鹿乃ちゃん2

 

 

我が家から車で15分ほどの蓮田に鹿乃子と出かけた。ステッキと私の腕につかまり、畔道を歩く。近くの広い珈琲店で軽い昼食をとる。急ぎのメールに返信する間、各種新聞、男性誌、女性誌、週刊誌の中から、『サライ』6月号「富士山を知る」を渡す。読むでもなく長い間じーっと表紙を眺めている。フルーツ添えフレンチトースト、サラダ、珈琲が運ばれ、食べながら『サライ』を横眼で眺めていたが、やおら「富士山の五合目まで行ったよ」と話しはじめる。
最近は聞き書きもなかなか進まず、同じ話ばかりが出てくるので実は行き詰っていた。
(「出た!初めての話だ!」)久しぶりにワクワクするが、今日に限ってメモ用紙もテープレコーダも持ち合わせず、とっさに備え付けの小さなアンケート用紙の裏に書きとる。

「二つ上のお姉さんの南海子さんと行ったんだ。面白かったよ。下から全部歩いてね」「この、歩くってのがなかなか良いんだね~」いくつの時?「20歳くらいだったと思う」「夏休みに行ったんだ。南海子さんは女子医専で、あたしは日本美術学校の学生だった」どんな服着て行ったの?「そりゃあスカートだよ。あの頃は若い女の人はズボンなんて穿いていないからね」「女の人はアルバイトなんかないから、山に行くお金は親から貰うんだけど、お父さんはシブい顔してた」「だってお父さんは農商務省の役人だったから、職業で山に登ることもあるけど、趣味で山に登るのにお金出すなんてネ」「遭難したら死ぬこともあるわけだから、イイ顔しなかったね」「シブい顔はしたけど、行くなとも言わなかったね」「たしか帰りに草津温泉に泊まったような気がする」突然唄いはじめる「♪草津よいとこ 一度はおいで あ、どっこいしょ お湯の中にも こりゃ 花が咲くよ ちょいな ちょいな♪」 「民謡は簡単だし変わらないからね」。

5月16日(金)快晴 午後1時。

 

 

 

聞き書き『モガ鹿乃ちゃんの百年―5月1日』

モガ鹿乃ちゃん2

 

 

朝9時半。母を近くのデ―サービスまで歩いて送る。空を見上げて「いい天気だねぇ」。通りまでの階段(62段)をステッキと私の腕につかまりながら降りる。
「うわー、あの緑は綺麗だねー」と立ち止ったのは柿の樹の前。柿若葉は本当に美しい。鹿乃子は毎年この柿若葉に感動する。

「お母さん、今日は5月1日だけど、何の日か覚えてる?」
「うん、覚えてるよ、メーデーだね」
「あのね、今日はお父さんの命日だけど・・・」
「あ、そうか。今日だったのか」「そうか・・・悪かったね、アハハハ」。何がおかしいのか何度も「アハハハ、そうか・・・お父さんは今日亡くなったのか・・・悪かった」と笑う。

1982年5月1日、父・謙吉は大動脈破裂で亡くなった。明け方病院で息を引き取り、葬儀の準備のため鹿乃子と私たち3人の姉妹は小ぬか雨の中を歩いて自宅に戻った。その道すがら鹿乃子が話していたのを鮮明に覚えている。「1カ月くらい前にね、お父さんがね、こんなことを言ってたよ」。

翫右衛門さん(註・前進座の)良い幕を引きましょう。僕は片手がちょっと不自由
なんで、うまく出来ないけど、手締めをしましょう・・・

安英さん(山本)、やっぱり大野屋の足袋は本物ですね。役者の足をちゃんと知っていて・・・

(天井をじっと見つめながら)ここから舞台を観るのも面白い、時には違った角度から舞台を観るのも必要だなァ。

根岸君は(門下生)は僕をむずかしい人だ、と言ったけど、でも味があるって・・・

舞台美術家だった吉田謙吉が亡くなったのは85歳、鹿乃子は69歳だった。16歳年上の夫の考えていることが自分が同じ年にならないと分からない、と私に言ったことがある。結婚相手は同じくらいの年の人が良い、とも。鹿乃子はとっくに85歳を超え、百歳五カ月を過ぎた。

謙吉は今年33回忌。戒名はない。