聞き書き『モガ・鹿乃ちゃんの百年―ブラジル余話』

モガ鹿乃ちゃん2

昨日、いつか行きたかった店「銀座 カフェ―パウリスタ」で珈琲を飲んだ。。「ブラジル移民の父・森田龍(りょう)」が明治44年(1911)に開店し、日本に珈琲とコーヒー文化を広めたことで知られ、多くの文化人が集ったことでも有名だ。明治41年、森田は最初の移民船「笠戸丸」に781人を乗せ神戸港から団長として出港した人物でもある。「ブラジル移民の父」と呼ばれるのはそのためだ。鹿乃子の長兄・金郎がブラジルに行きたい行きたい、と毎日のように言っていたのは大正7,8年(1921)頃と思われる。
「カフェ―パウリスタ」創業当時の建物は、大正2年に3階建ての白亜の瀟洒な建物に改築されたが、大正12年の関東大震災で焼失、現在の店は昭和45年(1970)に再開された。ジョン・レノン、オノ・ヨーコ夫妻が来日中に毎日立ち寄ったのは昭和53年(1978)のこと。

多くの文化人が集った、と書いたがその中に小山内薫、伊庭孝、土方与志、久保田万太郎、秋田雨雀、田辺茂一、谷桃子、古川緑波、吉野秀雄などがいたと知り、行きたかったのだ。なぜなら小山内薫以外は私が幼い時、あるいは大人になってお会いしたことがあり、父から何度となく聞いていた名前だったから。

『日本で最初の喫茶店「ブラジル移民の父」がはじめたカフェ―パウリスタ物語』(長谷川泰三・著 2008年文園社)を読んでいて面白いことを見つけた。<明治末年、東京にはすでに可否茶館、メイゾン鴻の巣、カフェ―プランタンといった西洋料理店が存在していたが、従来のチップ制を廃止し、一杯五銭という手頃な値段設定を初めて実施したのはカフェーパウリスタであり(後略)>。
私の父・吉田謙吉は昭和5年(1916)、師・今和次郎とともに『考現学』を出版した。「銀座のカフェ―服装採集」の項には、小松食堂、三共、佐々木喫茶、千疋屋フルーツパーラー、カフェ―ライオン、ALPS、銀座交差点ぱんじゅう、TIGER、地下室喫茶部、CAFE KIRINの女給さんたちの絵があり、まさしく昭和モダンの香り満載だ。その続きに「女給さんエプロン実測」という採集がある。
<たとえば図に於て見られるポケットDは鉛筆や伝票を入れるためであるにしても、その裏側に更にチップを素早く忍ばせうる為めのポケットが女給さん自身の手によって附加されるという(後略)>。採集は昭和3年(1928年8月6日京橋木挽町)。

女給さんのエプロンS

カフェ―のチップ制はずーっと続いていたわけで、カフェーパウリスタの経営方針は当時斬新なことであった。同店の全盛期は大正8年から9年頃だったそうだ。鹿乃子が7,8歳のころである。関東大震災で焼失してしまったから、鹿乃子は入っていないが、明治30年(1897)生まれの新し物好きで銀座近辺で生まれ育った謙吉は、ここの珈琲をきっと飲んだに違いない、などと想像しながら、ゆったりとした平成の「カフェーパウリスタ」で、珈琲を一人でゆっくり堪能した。