聞き書き『モガ鹿乃ちゃんの百年―ツジバイオリン』

モガ鹿乃ちゃん2

 

 

週2回通っているデ―サービスではコーラスの時間がある。歌詞カードを見ながら唱歌を皆で歌うのだが、若い頃に覚えた歌は80年以上経っても忘れないようだ。
11月20日には家族を呼んで発表会があるので、介護士の方たちも熱心に指導してくださっているらしい。

昨日の散歩の折り「どんな歌を練習しているの?」と聞いてみたら「そんなこと、いきなり聞かれたって分からないヨ」とつれない返事。5分ほど歩いているうちに「あー、そうだ」といきなり「♪ギーンザノヤーナギィ」と歌いだし、2番まで歌い通す。ギンザノヤナギの部分だけは私も知っていたが歌い出しも知らなかったし、後が続かない。「よく知ってるねー」「あら、珠江ちゃんは知らないの?」「・・・・・・」。

歌い終わると「子どもの頃、お兄さんに四谷の露天に連れられてよく行ったヨ。ツジバイオリンがいてね、そのときの流行り歌を歌って、歌詞を書いた紙を売るんだけど、簡単な歌はすぐに覚えられるから、紙は売れないネ」
「ツジバイオリン?」「バイオリンを弾く人と、歌う人と二人でひと組の辻バイオリン」。今でいう路上ライブ。
「どの家にもラジオがあったわけじゃないから、流行りの歌は辻バイオリンで聴いたり覚えたりしたよ」。

露天では「かき氷」も売っていて、兄は時々ご馳走してくれた。砂糖水をかけた「氷すい」は五銭、いちごシロップは十銭、小豆がのったのは十五銭。兄がご馳走してくれるのはいつも氷すいだった。「本当はね、小豆のが食べたかったけど、そんなこと言えないからね。今の子どもたちは、アレが食べたい、コレが食べたいってって言うけど、昔はね、そんなことは言えなかったよ」。

「銀座の柳」はいつのまにか「氷すい」の世界になっていく。

銀座の柳(1932年)
作詞:西条八十
作曲:中山晋平
歌唱:四家文子
制作:滝野細道

(一)
植えてうれしい 銀座の柳
江戸の名残りの うすみどり
吹けよ春風 紅傘日傘
今日もくるくる 人通り

(二)
巴里のマロニエ 銀座の柳
西と東の 恋の宿
誰を待つやら あの子の肩を
撫でてやさしい 糸柳

 

 

 

ミレーの「種をまく人」

8月22日、山梨県立美術館で開催中の「生誕200年ミレー展」に行った。お目当ては「種をまく人」。もうひとつ、美術史家・飯野正仁氏による講演「<種をまく人>の精神史・聖書の中の<種をまく人>・絵画の中の<種をまく人>」。面白かった!

ミレ―展表

ミレーは同じタイトルで5点描いている。そのうちの3点がまとめて見られる。なぜ「種をまく人」に私が関心を持ったかというと、『そば学大全―日本と世界のソバ食文化』(俣野敏子・著 平凡社新書)にミレーがまいているのはソバの種だ、と書かれていたからである。ミレーはフランス人、だからフランスパン、だから麦でしょう、という思い込みで何十年も生きてきた。何の種をまいているのか?なんて考えたこともなかった。いつか、どうしても本物の「種をまく人」が観たかったのだ。なぜムギではなくソバなのか?
ミレーの故郷は、フランス北部ノルマンディーの海港シェルブールから西に15kmのグレヴィルの町海岸沿いのグリュシーというちいさな集落だ。ここはムギ栽培の北限を超えているため、サラセンソバと呼ばれる穀類が作られているそうだ。

ミレ―種まく人上は山梨県立美術館所蔵の「種をまく人」(油彩 1850)。同館の常設展のチケットになっている。

種をまく人3
こちらはウエールズ国立美術館寄託の「種をまく人」(油彩 1847―48年)
ほかにリトグラフの「種をまく人」も展示されていて、これも素晴らしかった。
以下は飯野氏の講演の受け売りだが、この農夫が立っている大地は斜面であるため、ムギの栽培には適していないことも挙げられていた。そして後方の牛に注意を促した。ただの景色として描かれたのではなく、ソバの種をまいたあと土をかけるために牛がひく鍬が描かれているのだ、と。飯野氏曰く、絵には主題のほかに遠くや足元に描かれているものに注意すると、歴史や時代的な背景が分かる、と。

講演「聖書の中の<種をまく人>」では、12世紀の種まく人の様々な絵が紹介された。つまりミレーの「種をまく人」という主題は聖書の時代から描かれていて、ミレーだけが描いていたのではない。ただし、聖書の中の「種をまく人」の種はソバではなくムギだったのでは?というのは私の考え。

帰りに美術館のレストランでミレーにちなんだソバ粉のガレットを食べた。サクサクとしてとても美味しかった。中庭に目をやると美術館のガラス壁に「ミレーのノルマンディ・カフェ」と描かれていたのがムギの穂。ここはやはりソバでほしかった。

ミレ―展ガレット

ミレ―展ノルマンディ・カフェ

聞き書き『モガ・鹿乃ちゃんの百年―水筒と布袋』

モガ鹿乃ちゃん2

 

 

明日は8月15日。この日が近づくと、どうしても取り出してしまうものがある。そして、それは今のところどうしても処分できない物でもある。

1945年8月15日、私たち一家三人は内蒙古・張家口で敗戦を迎え、文字通り命からがら列車で北京を経て天津(テンシン)の収容所に入り、七か月余りを過ごした。
1946年3月末に日本へ引き揚げてきたときに身に着けていた父・謙吉の水筒と、まもなく4歳になる私の小さな布袋である。布袋は数年前に思い切って洗ったので、名前の布が白々としている。鹿乃子のものは残っていない。
「C-88」これが引揚時の私たち三人家族の身分番号だった。
丁寧に書かれた名前の布を、どのような思いで鹿乃子は縫い付けたのだろうか?日本に帰れる、喜びと不安と・・・。
私は昭和17年生まれだが、戦争の記憶は断片的なものだけだから、戦争を知っているとは言えないかもしれない。この二つの品は戦争の記憶の尻尾とでも呼べばよいのだろうか・・・。

引き揚げ時の水筒と布袋S
この汚い尻尾を、いつかは何とかしなければならない、と思いつつ何年も過ごしてきた。こんな物を身につける日がもう来ませんように・・・と思うために、捨てない自分がいるのかもしれない。

蓮見障子

今年は開花が早く、6月半ばから咲き始め、齊藤さゆりさんの「蓮の絵展」会期にあわせて、大小の蓮が良く咲いています。もう果托になってしまったのもいくつか・・・。

ギャラリー入口
室内から蓮をたのしめるように作った蓮見障子。今年は「蜀紅蓮」がなかなか良い姿で咲いています。蓮の花は4日の命、明日には散ってしまいます。

蓮見障子7月16日開花2日目S

蜀紅蓮開花2日目室内より

聞き書き『モガ鹿乃ちゃんの百年―桑の葉』

モガ鹿乃ちゃん2

 

 

雨模様のなか、車で久しぶりに近くの「寺家ふるさと村」に出かけた。田植えも大分前におわり、田んぼの苗はしっかりとした姿になっている。鹿乃子はここの緑の中を歩くのが好きだ。
5月半ばから風邪をひき、38度前後の熱が2週間ほど続いた。ベッドにいる時間がほとんどで、散歩もできなかった。熱がひいても一日ぼーっと窓の外を猫のように眺めていることが多くなり、テレビも新聞も見なくなった。
これはまずい、とりあえず週2回通っているデ―サービスを再開してみよう、と妹たちと決める。一日一回の散歩も再開するが、歩く距離は以前より短くなっている。
それから一カ月、大正二生まれはスゴイ、蘇ってしまった!
というわけで冒頭の「久しぶりの寺家ふるさと村散歩」となった。

 
寺家ふるさと村2 2014年6月27日
車で10分ほど移動する間にザーッとひと雨降ったので、田んぼも山も緑がいきいきとして美しかった。右手にステッキ、左手は私と手をつないで歩く。
「いいねー、ここ好きなんだ。樹があんなに大きくなって、いいねー」「あたしのお父さんは山林関係の仕事をしていたから、樹はいっぱい見ていただろうけど、あたしは子どもだったから、よく分からなかったけど、今はいいなーと思うよ」。私が聞いていようといまいとラジオのように喋りながら、歩く。
車に戻る途中で大きな桑の木を鹿乃子が見つけ、「桑の葉を見ると、蚕を飼ったのを思い出すよ」「小学校4年だった、近くに近藤さんていう友達がいてね、その人は四谷第二小学校であたしは第四だった」「その人のお兄さんがたしか早稲田の学生で、面倒見が良くてね、よく可愛がってくれたよ」「その人がね、蚕をくれたから家で飼ったよ。桑の葉をやってね」「繭になって糸もとったよ、糸巻きにね」「あの頃はすごく楽しかったよ」

クワの葉と鹿乃子1 1014年6月27日

何度も何度も「あの頃は楽しかったよ」と言う。
「近藤さんとはね、学校は違ったけど、お琴で一緒だったんだ」
この後、初めて聞く名前と話がでてきて驚いた。桑の葉を見つけただけなのに、繭玉から糸を引きだすように鹿乃子の話が自然にでてくる。

聞き書き『モガ鹿乃ちゃんの百年―富士山』

モガ鹿乃ちゃん2

 

 

我が家から車で15分ほどの蓮田に鹿乃子と出かけた。ステッキと私の腕につかまり、畔道を歩く。近くの広い珈琲店で軽い昼食をとる。急ぎのメールに返信する間、各種新聞、男性誌、女性誌、週刊誌の中から、『サライ』6月号「富士山を知る」を渡す。読むでもなく長い間じーっと表紙を眺めている。フルーツ添えフレンチトースト、サラダ、珈琲が運ばれ、食べながら『サライ』を横眼で眺めていたが、やおら「富士山の五合目まで行ったよ」と話しはじめる。
最近は聞き書きもなかなか進まず、同じ話ばかりが出てくるので実は行き詰っていた。
(「出た!初めての話だ!」)久しぶりにワクワクするが、今日に限ってメモ用紙もテープレコーダも持ち合わせず、とっさに備え付けの小さなアンケート用紙の裏に書きとる。

「二つ上のお姉さんの南海子さんと行ったんだ。面白かったよ。下から全部歩いてね」「この、歩くってのがなかなか良いんだね~」いくつの時?「20歳くらいだったと思う」「夏休みに行ったんだ。南海子さんは女子医専で、あたしは日本美術学校の学生だった」どんな服着て行ったの?「そりゃあスカートだよ。あの頃は若い女の人はズボンなんて穿いていないからね」「女の人はアルバイトなんかないから、山に行くお金は親から貰うんだけど、お父さんはシブい顔してた」「だってお父さんは農商務省の役人だったから、職業で山に登ることもあるけど、趣味で山に登るのにお金出すなんてネ」「遭難したら死ぬこともあるわけだから、イイ顔しなかったね」「シブい顔はしたけど、行くなとも言わなかったね」「たしか帰りに草津温泉に泊まったような気がする」突然唄いはじめる「♪草津よいとこ 一度はおいで あ、どっこいしょ お湯の中にも こりゃ 花が咲くよ ちょいな ちょいな♪」 「民謡は簡単だし変わらないからね」。

5月16日(金)快晴 午後1時。

 

 

 

聞き書き『モガ鹿乃ちゃんの百年―5月1日』

モガ鹿乃ちゃん2

 

 

朝9時半。母を近くのデ―サービスまで歩いて送る。空を見上げて「いい天気だねぇ」。通りまでの階段(62段)をステッキと私の腕につかまりながら降りる。
「うわー、あの緑は綺麗だねー」と立ち止ったのは柿の樹の前。柿若葉は本当に美しい。鹿乃子は毎年この柿若葉に感動する。

「お母さん、今日は5月1日だけど、何の日か覚えてる?」
「うん、覚えてるよ、メーデーだね」
「あのね、今日はお父さんの命日だけど・・・」
「あ、そうか。今日だったのか」「そうか・・・悪かったね、アハハハ」。何がおかしいのか何度も「アハハハ、そうか・・・お父さんは今日亡くなったのか・・・悪かった」と笑う。

1982年5月1日、父・謙吉は大動脈破裂で亡くなった。明け方病院で息を引き取り、葬儀の準備のため鹿乃子と私たち3人の姉妹は小ぬか雨の中を歩いて自宅に戻った。その道すがら鹿乃子が話していたのを鮮明に覚えている。「1カ月くらい前にね、お父さんがね、こんなことを言ってたよ」。

翫右衛門さん(註・前進座の)良い幕を引きましょう。僕は片手がちょっと不自由
なんで、うまく出来ないけど、手締めをしましょう・・・

安英さん(山本)、やっぱり大野屋の足袋は本物ですね。役者の足をちゃんと知っていて・・・

(天井をじっと見つめながら)ここから舞台を観るのも面白い、時には違った角度から舞台を観るのも必要だなァ。

根岸君は(門下生)は僕をむずかしい人だ、と言ったけど、でも味があるって・・・

舞台美術家だった吉田謙吉が亡くなったのは85歳、鹿乃子は69歳だった。16歳年上の夫の考えていることが自分が同じ年にならないと分からない、と私に言ったことがある。結婚相手は同じくらいの年の人が良い、とも。鹿乃子はとっくに85歳を超え、百歳五カ月を過ぎた。

謙吉は今年33回忌。戒名はない。

 

 

 

 

 

 

 

韓国大邱レポート・釜山駅で

大邱に行くには、釜山駅まで地下鉄で二駅、そこから新幹線KTXに乗り45分、一駅目。(東京から新横浜までという感じかな・・・。)。こう書くと簡単なのだが、韓国語が話せない、読めないから何かとウロウロすることに。先ず地下鉄の階段を大きなケースを持って降りる(私は蓮の食器や書籍を購入するので大きなバッグが必須)。ちなみに湯村さんはいつもショルダーバッグ一つのみ。前夜下見をしたにもかかわず改札口がすぐに見つからない。地下道を掃除しているオバチャンに「あっちあっち」と指さしで教えてもらう。そのオバチャンはずーっと姿がみえなくなるまで私たちを見守っていてくれた。
KTXチケットを購入中の湯村さん
湯村さんが日本でKTXのチケット購入の方法をブログで探し出し「記入すればよろしい」というものをプリントし、窓口に出したらすぐに購入できた。ブロガーさんに感謝!
窓口で身を乗り出し、チケット購入中の湯村さん。

さて、やっと釜山駅で朝食。

釜山駅朝食2釜山駅朝食1トックラーメン定食。トックは米粉の餅。
キムチは必須!

 

 

 

 

こちらはご飯つきチゲ定食。
チゲは鍋のこと。
豆の煮ものもついてきた。

 

 
朝から元気なご飯をいただいて、さあKTXに乗り込みましょう。

韓国大邱レポート・釜山の夕食

釜山一夜目、今夜はサムギョプサルかサムゲタンにしよう!
韓国にかぎらず、旅の楽しみの一つは食にあり。それも高級店ではなく、ごちゃごちゃと庶民がいっぱいいるところで、あるいは屋台で、というのが私たち二人だけで食事をするときの楽しみ方。
ホテルまで送ってくれた旅行社の中年女性添乗員曰く「韓国語は話せますか?駄目・・・。ハングルは読めますか?駄目・・・。うーん、それでは、明るくてお客さんがいっぱい入ってる店にしてください!」と。この一言を頼りに食事処を探しに出かける。ホテルの裏通りは賑やかな飲食街。ぶらぶらと色々な店を覗いてみるが、どうもイマイチ入りたい店がない。高級そうだがガランとして活気が無い店、オジサンたちがマッコリの瓶を並べて顔を真っ赤にして大声で叫んでいる店。路地裏も探索したが、二人が納得できる店がなかなか見つからない。成田を発ってから数時間、空腹はそろそろ限界だ。
「ここは?!」。広い通りの角店で、ガラス張り。明るい店内には家族連れ、カップル、女子グループ、男子グループがいて楽しそうだ。「入りましょ!」。
元気なオバチャンが飛んできて「ニホンジン?」日本語も書き込まれているメニューをテーブルに。隣近所の席を見まわし、先ずはお目当てのサムギョプサルを二人前注文。「足りないヨ。五人前くらい頼んで。安いから」「ワカリマシタ、じゃ五人前」。チャッチャと豚バラ肉、キムチ、モヤシを鉄板にのせて焼いてくれた。鉄板は斜めになっているから脂は程よく流れていき、うーんオイシイ!

釜山サムギョプサルS

サムギョプサル2

ロースも追加してしまった。満腹、大満足、ご馳走様でした!

ロース

ホテルの窓から遠くに見える釜山港には月が高く上っていた。明日は大邱に出発!

韓国・大邱レポート3

釜山空港到着後、ホテルへの送迎混載バスに乗り込む。フリープランなれど、ロッテホテル免税店に1時間ほど立ち寄ることになっているコースなので、入店。湯村さんと私はブランド高級品には全く関心がない。お茶でも飲んで他の方々が戻るのを待とう、と思っていたがティールームも無い。
そこで、広くて清潔なトイレ・パウダールームで時間を過ごすことに。

ロッテ免税店化粧室壁面1

壁面のインテリアは金属製のオブジェで、パウダールームにしてはなかなかアーティスティックだ。

ロッテ免税店パウダールーム

なにやらスケッチを始めた湯村さんを残し、売場に戻る。二女に「韓国に行ったら化粧品系を買ってきて」と言われたのを思い出したので。
色々な成分が入っているパックのなかで、今年はこれが一番人気という「かたつむりパック」を20袋購入。
パウダールームに戻ったら、湯村さんは清掃の女性スタッフを描いていた。

ロッテ免税店パウダールーム2

二人とも楽しそうでした。